今期の役員と委員会構成

メンバーからの一言

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チャーターナイト25周年記念を記念して編纂した「桜獅子」より抜粋して掲載してゆきます。

第15回


歩み
L山口泰男
 東京桜門LCチャーターナイトニ十五周年 おめでとうございます。
 せっかくの機会ですので、私がこれまでどんなことをしてきたのかを、紹介させていただきます。
 では、私の頭の中の「三十七年間の歩み」のビデオテープを一旦巻き戻し、早送りで再生いたします。

 ー スイッチONー

 「山口泰男、大阪支社勤務を命ず」鉄道公団の新入職員研修の、最終日の辞令(昭和四十二年四月二十四日付)公布です。

 奇しくも私の生誕の地、大阪が初勤務地となりました。

 花の独身生活、夜のネオンに誘われて、お酒の味と恋の味、義理と人情の大切さを学んだ四年間でした。

 そして雪国、新潟へ。

 上越新幹線を、「雪に強い新幹線」にするために、一晩に1mも降る雪の中、雪を知らない男が、右往左往する、涙・涙の毎日でした。

 その甲斐あってか、開業から今日まで二十年間、雪による遅れや運休は一度もありません。

 「本日も上越地方は大雪に見舞われていますが、上越新幹線は平常通り運行しています。」毎冬、このニュースを聞く度に、そのときの苦労を思い出し、満足感に浸っています。

 新潟での七年間「不可能という文字はない」ことを知りました。
 そして、東京・赤坂の本社へ。
 東急新玉川線、西武池袋線などの建設が担当です。
 運輸省のお役人様とのお付き合いが、大切な任務でした。
 ちょうどこの頃、東京桜門LCが誕生しました。
 三年半の勤務の後、上越新幹線の最後の仕上げのために、関東支社へ。
 地元住民の反対で、二年間工事が中止されている地区が私の担当でした。
 赴任の日、真っ先に反対派の会長の自宅に行き、夜遅くまで膝と膝を突き合わせての話し合いが続きました。
 最後に会長が「明日から工事をしてもいいヨ。」の一言、固い握手で別れました。
 赴任の翌日から、私がやる仕事がなくなってしまいましたが、「熱意は必ず人を動かす」ことを学びました。

 そして、北国・盛岡へ。
 「おばんです。おれのかかあの田舎に鉄道つぐり(造り)にきたっす。お願いいだします。」寒い中、妻の郷里、秋田の村の公民館で板の間に座っての、用地買収協議の挨拶が、最初の仕事でした。

 ちょっと寒さが身に凍みるけど、東北の風土と人情に惚れ込み、東北人に成りきろうと思った四年間でした。

 その結果、新居を構えるハメに陥ってしまいました。
 これが長い単身赴任生活の始まりとなりました。
 そして再び、東京・赤坂の本社へ。

 西日本全域を担当。待っていたのは、二十年問誰も解決できなかった滋賀県・三井寺と九州・熊本の高森町の、二件のトンネル工事による渇水補償問題でした。

 九州に、滋賀県に、何回も何回も足を運び話し合いをしました。本社に泊り込むことも何度かありました。
 その努力の甲斐あって、両方とも全て円満に解決!
 「チームワークとコミュニケーションの大切さ」をしみじみと味わった五年間でした。

 そして名古屋へ。
 これも縁というのでしょうか。私は戦争中、愛知県安城市に疎開していたので、四十数年ぶりの愛知入りとなりました。

 中部国際空港や万博会場へのアクセス鉄道の「夢の花」の種を蒔いて、三度目の赤坂・本社へ。

 今度は日本全国の鉄道建設を担当。
 現場の安全を願って全国くまなく歩き、在任中の二年間死亡事故0人の快挙を達成!

 平成九年三月、三十年間の勤務を終え、静かに鉄道公団を卒業しました。
 その後ゼネコン・フジタに入社。
 そこで、L.松井健治との運命的な出会いがあり、東京桜門LCに入会させていただきました。
 フジタでの六年間は、心から技術を愛する若手技術陣から新しいパワーをもらいました。

 そして昨年(平成十五年)の六月、縁あって鉄道公団の関連会社、株式会社レールウェイエンジニアリングの社長に就任いたしました。

 約四十名のベテラン鉄道技術者達と一緒に、日本の鉄道界のために再び汗を流すことになりました。

 学校を出てから三十七年間、勤務地を変わること十八回と、多くの地で仕事をさせていただきました。お蔭様で、各地で沢山の思い出造りができました。
 多くの皆様からいただいた教えを、何時も念頭に置きながら、これからも「健康で、明るく、楽しく」をモットーに、世のため、人のために、頑張っていきたいと思っています。

 関係の皆様、今後とも、御指導よろしくお願いいたします。
 これでビデオテープの再生を終わります。

 ー スイッチOFFー