今期の役員と委員会構成

メンバーからの一言

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チャーターナイト25周年記念を記念して編纂した「桜獅子」より抜粋して掲載してゆきます。

第8回


私とレスリング
L内田豊
 昭和二十八年にレスリング部に入部、当時は神田三崎町に日本大学本部がありその地下に剣道部、空手部、応援団部室、柔道部の道場があり廊下を隔ててレスリングの道場があった。日大レスリングの歴史は昭和十四年同好会として誕生、翌十五年レスリング部創立、協会加盟、昭和十六年リーグ戦(二部)初参加。当時のレスリング部は、団体戦ではウェルター級、ミドル級は柔道部より選手を借り出して補充していた。昭和二十八年以降よりレスリング部部員でのフルメンバーが組めるようになったと記憶している。

 選手時代の最良の思い出と言えば、昭和三十一年度春季リーグ戦で優勝し、念願の一部に昇格したことだ。この年を期に年々選手層も充実し、後に日本大学レスリング部の黄金時代を迎えることになる。

 レスリングの歴史は紀元前であると言われておりますが、国技ではない日本ではオリンピック前後一年か二年スポーツ紙やマスコミに取り上げられ、話題になるくらいで他のスポーツに比べると今一人気のない地味なスポーツかもしれない。

 私がレスリング部に入部するきっかけは、高校のOBで磯川先輩が日大柔道部に居られた。私は高校時代には講道館で柔よく剛を制す、で柔道に没頭し夜は近所の町道場にも通っていた。
 将来は大学の柔道部にはいり柔道がしたかったが、磯川先輩に身体の小さいお前には大学の柔道は無理だ(今は柔道も体重制が有る)体重制のあるレスリング部に入れとすすめられ、レスリング道場に連れて行かれたのがレスリングとの始めての出会いである。

 後日談として「どうせ一ヶ月もしないうちに逃げ出して行くだろうから、取り敢えず入れておけ」と今は故人となられた小林暢先輩が言ったとか、余程貧弱に見えたのだろう当時私の体系は身長五尺五寸体重十四貫位で非常にスリムだった。

 高校時代は人より強く成りたいと夢中で柔道を練習していたが所詮は遊びに過ぎなかった。入部して始めての春の合宿に参加、地下道場での寝泊り、一番辛かったのは毎日の皇居一周するロードワーク、大学の運動部の練習量は半端ではないと入部してみて痛感した、又正直なところ後悔もした。

 レスリングの経験がないのは私の他に数名居たが他の一年生はすでに高校時代に戦歴の有る奴ばかり。運動部の先輩、後輩の体質を知らない、ましてレスリングの経験のないド素人が、レスリングを始めたのだから一年か二年は人には言えない苦労も有ったし猛練習もした。

 両耳は内出血で餃子の様に腫れ上がりその痛いの何の、練習帰りに駿河台大病院に寄り内出血して腫れ上がった耳の血を注射器で看護婦に抜いてもらうのだが、その痛さときたら半端ではない。

 お袋さんに、どうだ格好が良いだろうと、潰れたれた耳を見せると「五体満足で生んだのに何が嬉しいのか馬鹿」と嘆かれた。

 猛練習の甲斐が有り、レギュラーの座を得たときの喜びは人一倍の喜びが有った。今考えても良くやったものだと自分なりに自分を評価している。

 最近は女子までがウエートリフティングとかレスリングが盛んになって来た、これもオリンピック種目に成った関係だと思う。日大にも全国高校選手権、国体出場と経験、戦歴の有る女子学生が毎年入部して来る。又レスリング部創設以来平成十四年度、十五年度と二名の女子選手が総長賞を受賞した。男子選手も一層奮起しなくては成るまい。

 我々の頃からすると今の学生は全ての面で恵まれた環境の中で練習が出来て幸です。

 平成十五年は三冠達成できず二冠で終わり残念でしたが、今年こそ三冠達成出来ます様に祈念致します。