今期の役員と委員会構成

メンバーからの一言

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チャーターナイト25周年記念を記念して編纂した「桜獅子」より抜粋して掲載してゆきます。

第6回


日大・サ大学術交流協定覚書調印小秘話
L長尾 勇
 一九七四年(昭和四十九年)十一月八日は、ブラジル在住の日本大学出身者にとつて、移住以来の最も感 動的な日であったと思います。

 総長代理として、州立サンパウロ大学との学術交流協定締結のため渡伯され、困難な交渉の結果、この日ようやく覚書の調印にまで漕ぎつけられた副総長・小堀進先生(農獣医学部長)は、サンパウロ市内のささやかな日本料理屋「こけし食堂」に集まった三十人近い校友たちに、交渉の成功を伝えられました。
 
 冒頭、小堀先生は立ち上がられて、「これが、今、調印してきた議定書です」と、さっき調印されたばかりの覚書を両手で胸元に示されたまま、声をつまらせてしまわれました。一瞬あって、校友たちから大きな拍手と歓声が起こりました。

 州立サンパウロ大学(略称USP)はブラジルを代表する大学です。全ての分野でブラジルの教育並びに研究をリードしていました。歴代の大統領の多くもUSP出身者です。サンパウロ市民(パウリスタ)たちは、自分たちの土地の大学であるUSPを、誇らしくラテンアメリカ第一の大学と称していましたが、それは事実であったと思います。

 USPは、規模の大きさだけでなく、実質的にも優れた権威ある総合大学でした。そのために万事に極めて慎重で、殊に対外的な、大学間の交流などに関しては、州や大学内の幾つもの委員会の審議を経て、ようやく実現を見るといった具合で、日本でも当時いくつかの有力大学が提携を企てていましたが、いずれも成功しませんでした。
 
 冒頭に記した日本大学とUSPとの学術交流協定締結のために、日大からは小堀進副総長のほかに、赤坂三男学務部長、随行として佐藤力男国際課長の三名の方が来伯されました。一九七四年十一月四日十時五十五分、サンパウロ市の中心から北西約百㎞のカンピーナスにあるビラコッポス国際専用空港に着かれました。そして直ちにサンパウロ総領事館を訪問され、伊藤政雄総領事をはじめ文化担当の鈴木康之領事らに挨拶されました。

 当時、バリグ航空での日本からの往路は、羽田―ロスアンジェルスーリマ―リオデジャネイロ―ビラコッポスまたはコンゴニアスでした。所要時間は二十七時間半ですが、時差の関係から、先生がたが四日の昼前にビラコッポスに着かれるためには羽田を二日の十九時頃発たれたことになります。飛行機の中で二度夜明けを迎えなければなりません。しかも、晩秋の日本から一気に赤道を越えて、南回帰線に近い初夏のサンパウロヘの移動後は体調を整えるための時間が必要なのですが、小堀先生がたは予定された日程が押し詰まっていたため、大変な強行軍でスケジュールを進めて行かれました。

 翌五日は大学で九時に総長を訪問され、午後からUSP側の折衝委員長である副総長と打ち合わせに入りました。この問、USP文学部東洋学科日本学専攻課程主任の鈴木悌一教授が、むしろ日本側に立って、通訳も兼ねて終始お世話してくださいました。

 六日・七日は両日とも早朝から夕方まで交渉が続けられました。私は日大とUSPの教員を兼ねていたため、会議に同席させていただき、交渉の推移をつぶさに見ることが出来ました。しかし、六日の様子では果たして最終日の八日までに調印が出来るのだろうかと案じられる程でした。USP側が公立大学であるために、既に記したように、州をはじめ各段階の委員会の承認を経なければ、僅かの変更も困難である点に最大の原因がありました。また、日大側も小堀先生が全権を委任されているとはいえ、当時はFaxは勿論無く、国際電話さえも申し込んで最低三十分は待たされるという有様でしたので、十二時間時差のある日本の大学本部との連絡などは到底望むべくもありませんでした。

 そのような酷しい環境及び状況の中でも、日大からの三人の委員の方々は、大変粘り強く誠意をもって交渉に当たられました、その結果はUSP側に異例の措置を取らせることとなり、日大にとっては望ましい内容の学術交流協定覚書の作成がなされることとなりました。そして、日大側委員が愈、明日の九時二十分にブラジルを離れる前日の八日午前、覚書の文案がまとまり、直ちに調印という運びになりました。
 
 この日の夜、USP側の招待でホテルでのレセプションが計画されておりましたが、小堀先生がたは、あらかじめ辞退されたうえ、始めに記した「こけし食堂」での校友たちの集まりに出席されました。日大紛争の最中にあっても毅然として暴力学生たちに対峙された小堀先生でしたが、今、サンパウロの地で、校友たちに囲まれて絶句しておられるお姿からは、USPとの交渉の困難さが、どれ程のものであったかを十分に知ることが出来ました。この後、校友たちの感謝の言葉、喜びの言葉を数々聞かれ、日大校歌を共に歌われ、恐らくそれまでのお疲れも癒されたことだったと思います。

 そして翌九日、小森広ブラジル校友会長ほか大勢の校友たちに見送られて、予定通りビラコッポス空港から帰途につかれました。

 実は私が国際交流基金からの依頼により、USPの客員教授として赴任するために日本大学から許可された海外出張期間は昭和四十八年の二月十六日から一年間でしたが、USPからの要請により、半年間の延長が日大及び国際交流基金に認められました。従って昭和四十九年の八月末に帰国するつもりで、八月中頃には帰りの航空券も手配し終わりました。

 ところが、元農獣医学部長の大森智堪先生のお宅から突然電話があり、「サンパウロ大学との学術交流協定を進めるため、小堀先生が総長代理としてそちらに行くから、あなたはそれまでブラジルに居て手伝ってほしい」ということでした。傍に小堀先生も居られて同じことを言われました。そのために、任期を再延長していただきUSPの学年末に当たる十二月まで居ることになりました。(当時、私は農獣医所属でした。) 

 今、当時を振り返ってみますと、小堀先生、赤坂先生、佐藤課長、それにUSPの鈴木先生も既に故人となられ、大変淋しい思いがします。そして、会議の全てを知る者として、あの御努力を記録に留めたく、その経過をごく簡略にまとめてみました。

 日本大学の校史年表には、一九七四年(昭和四十九年)十一月八日「ブラジル連邦共和国・サンパウロ大学と学術交流協定覚書調印」とあり、一九七七年(昭和五十二年)四月七日「ブラジル連邦共和国・サンパウロ大学と学術交流協定締結」とあります。昭和五十二年の締結に関しては、私は立場上当然のことながら一切知りません。
 
 平成十五年度の日本大学『教職員便覧』には、海外学術交流提携校等(十九力国一地域八十四大学等)のぺージに、大学の全学部対象の協定校だけでも二十九大学が載っています。更に、学部同士の交流を含めますと、全部で八十四大学ということになります。

 それより十四年程前の平成元年十月に出された『日本大学創立百周年』記念誌には、学術交流提携校としてUSPを含めて十三大学が挙げられています。その中には、現在既に名前の載らない大学もいくつかありますが、いずれにしても、ここ十数年の提携校の増加には目を見張るものがあります。
 
 校史によりますと、この目覚しい海外大学との交流の歴史の中で、USPとの覚書調印以前に、学術交流協定を締結した大学は、一九七三年(昭和四十八年)二月二十三日の、韓国中央大学校が一校あるのみでした。
 
 このように、一九七四年頃は、日本大学としては海外学術交流の協定締結ということが、ようやく緒についた時分でした。そのため前例も乏しく、小堀先生がたは大変な御苦労をされたのではないかと思います。現在の八十四大学にしても、提携に至るまでには、担当者はそれぞれに困難な問題の解決に努力されたはずで、先人の御努力に報いるためにも全ての提携校との実(じつ)のある交流は益々密にする必要があるのではないかと考えます。
 
 最後に、小堀進先生も、我が東京桜門ライオンズクラブの会員であられたことを記して、改めて感謝と追悼の意を表したく存じます。

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